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詩人武田こうじが歩く、文学の街・仙台。

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物故者篇

物故者篇からは、詩人の島崎藤村と土井晩翠のゆかりの場所を紹介したいと思います。

 日本の近代詩の夜明けを告げる詩集『若菜集』を書いた島崎藤村が、初めて仙台の土を踏んだのは、明治29年のことで、藤村は24歳でした。 そこから、藤村が仙台に滞在したのは、僅か10ヶ月余り。 なのに、なぜ藤村と仙台は深く結びついているのか。 それは、その間に『若菜集』を書き上げたからなのですが... もうちょっと言ってしまえば、仙台という街が藤村に『若菜集』を書かせたからだと思います。
 北村透谷との出会いによって学んだ自由恋愛と自我の解放。そして、透谷の死によって知る現実という壁・挫折。また、このころ藤村は自分が教師をつとめていた明治女学校の教え子とのかなわぬ恋愛に苦しんでもいました。 それこそが藤村の表現の核であり、エネルギーでした。だけど、同時に藤村は深く傷ついてもいました。

 これは今日に続く、多くの作家が抱える悩みとも言えるでしょう。 自分が思い描く世界が強ければ強い程、現実に打ちのめされた時の傷も大きいのです。 そんな藤村を仙台は、穏やかな自然と暖かい光で迎えたのです。後に藤村はこんな言葉を残しています。 「長い旅をおえて仙台の土を踏んだとき、わたしの心はすっかり鎮まり、ここではじめてわたしの生涯の夜が明けてきたような気がいたしました」

 『若菜集』に歌われている恋する詩人の情熱と官能。
 そして、透谷の詩を乗り越えていこうとする逞しさ...それを「仙台が支えた」というのは言い過ぎでしょうか。
 今、改めて『若菜集』を読んで、僕が感じるのは、新しい詩の言葉に出会えたという興奮と自分の表現に辿り着いたという自信。 そして、そんな自分から冷静になることに成功している優れた客観性です。 きっと、それはその渦中にいる時から、離れることができた“仙台”という距離感が影響していると思うのです。
 『若菜集』を書いた下宿「三浦屋」跡地は、表紙に描かれている蝶をあしらった広場になっています。 当時の街並とは、ずいぶん違いますが、ここで藤村が様々な葛藤を経て『若菜集』に辿り着いたと思うと、感慨深いものがあります。

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『若菜集』の記念碑

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下宿「三浦屋」跡地
仙台市宮城野区名掛丁

 次に土井晩翠です。彼もまた仙台を愛し、仙台での執筆活動を通して、詩人としての新たな境地を確立していったと言えるでしょう。彼の作品には、地名が題名になっているものがたくさんあります。広瀬川、松島、青葉城など。
 それは、そのまま仙台(宮城)の素晴らしさを伝えてくれていますし、詩という表現の可能性も教えてくれます。
 晩翠の胸像と『荒城の月』の歌碑がある青葉山仙台城址からは仙台の街を見渡すことが出来ます(撮影当日はあいにくの天気でしたが...) 
 そして、ここでは毎年晩翠の命日10月19日に「荒城の月 市民大合唱」(10:00~11:30 会場:仙台城址「荒城の月」詩碑前)が行われます。
 また晩翠と言えば、忘れてはいけないのが、晩翠草堂です。ここは晩翠が晩年を過ごした旧居で、街の中心部に近く、アクセスがしやすいので、 仙台市民からも人気があります。街の賑やかさの近くに、情趣があるという感じで、とても晩翠的といえるでしょう。

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晩翠の胸像と『荒城の月』の歌碑がある青葉山仙台城址

晩翠が晩年を過ごした旧居 「晩翠草堂」