せんだい旅日和 特集

今から400年前。
石巻の月浦という入り江から1隻のガレオン船(西洋式軍艦)が出航しました。
乗り組んだのは、仙台藩士支倉常長や宣教師ルイス・ソテロが率いる約30人の使節団や多くの商人ら約180人。後に「慶長遣欧使節」と呼ばれる一団です。
伊達政宗公が一行に与えた使命は、ヨーロッパに渡ってスペイン国王とローマ教皇に会い、外交関係を結んでくること。
長かった戦国の世が終わり、徳川幕府が開かれて間もないその時期に、政宗公は何を狙って使節を送り出したのでしょうか?

慶長遣欧使節の旅

政宗公の命でスペイン、ローマへの大使に

支倉常長は1570年(元亀元年)頃に、伊達家家臣支倉常成の子として生まれ、その後、伯父の養子になったと言われています。

豊臣秀吉の朝鮮出兵では渡航を経験し、伊達政宗公に従って戦いました。

使節の目的は、スペイン国王に会いメキシコ(当時はスペインの植民地)との直接貿易の許可を得ること。そして、ローマ教皇に会い仙台領内での布教のため宣教師の派遣をお願いすることでした。

常長と共に大使を務めたスペイン生まれの宣教師ソテロは、使節の先導役として、行く先々で常長を助けました。

仙台藩の侍、大海原へ

仙台藩が建造したガレオン船(西洋式軍艦)サン・フアン・バウティスタ号は、太平洋を渡り約3カ月後にメキシコのアカプルコ港に到着します。
一行はここから陸路メキシコを横断して大西洋側に出ると、別の船に乗り換えてスペインへと渡りました。

各地で歓待を受けながらスペインの首都マドリードにたどり着いたのは1614年12月。 ここで国王フェリペ三世に謁見して政宗公の親書を手渡した常長は、翌年2月、洗礼を受けます。 「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ファシクラ・ロクエモン」。それが、常長の洗礼名です。

ついにローマ教皇と会い、政宗公からの手紙を渡す

1615年8月、常長一行はローマ教皇に会うためにマドリードを発ちます。
そして11月3日、ついに常長は、キリスト教の頂点であるローマ教皇パウロ五世に謁見することができました。
月浦を出帆してはや2年が経っていました。

ローマでも歓待を受け、公民権まで与えられ、貴族に列する事も許された常長でしたが、スペインとの貿易交渉は思うように進みませんでした。
常長が日本を発って間もなく国内でキリスト教禁止令が発せられるなど徳川幕府の対外政策が変化してきたことがスペイン側にも伝わっていたためです。
粘り強く交渉に当たった常長でしたが、1617年7月、とうとうヨーロッパを離れて帰国しなければなりませんでした。
アカプルコ港から再びサン・フアン・バウティスタ号に乗った常長は、マニラを経て長崎、そして仙台へと帰って来ました。

帰国した常長を待ち受けていたのは、悲劇でした。
キリスト教弾圧が厳しさを増すなか、1622年8月、支倉六右衛門常長は52年の生涯を閉じます。
(実は前年に亡くなっていたという説もあります。)
常長の墓とされている場所は県内に複数あります。
なぜ常長の最期はこのようにミステリアスなのでしょうか?
それは、主君であった政宗公が、幕府のキリシタン弾圧の手から常長を守るために匿ったのではないかとの見方もあります。
幕府のキリシタン弾圧の手から常長を守るために、生前から死後も常長を匿い続けたでしょうか。

今、ふたたび歴史のヒノキ舞台へ

それから250年。 明治維新まで支倉常長の名前は表舞台から遠ざかり、やがて忘れられてしまいました。 常長の名前にふたたび光が当てられたのは1873年。 明治政府が欧米に派遣した岩倉具視使節団が、訪問地のイタリアで常長の業績を知らされたのです。 それからというもの、支倉常長をめぐって多くの研究論文や芸術作品がつくられてきました。

伊達政宗公の慶長遣欧使節団は、思い描いたような成果を上げることはできませんでした。
常長自身も、失意のうちに世を去ったと思われます。

しかし・・・・・・、
400年も前に、大海原の向こうにある未知の世界へと乗り込んだこと。
大国スペインやキリスト教の頂に立つローマ教皇と堂々たる会見を果たし、日本の侍の品格と知性、勇敢さを、世界に示したこと。
その偉業はいくつかの書に記録され、その姿は実在の日本人を描いた最も古い油絵として知られる国宝「支倉常長像」となって残り、今も見ることができます。

このような人物がこの国に、この仙台・宮城の地に生きたこと。 常長の偉業とその残したものを見つめると、無性に心が揺さぶられ、生きていく勇気が湧いてくるようです。

常長が持ち帰った品々は大切に伝えられ国宝に指定されています。これら国宝の実物を仙台市博物館で目にすることができます。

支倉常長について詳しくは「仙台市博物館」のサイトよりご覧ください。

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