1894年、広島県の造り酒屋に生まれた竹鶴政孝氏。長じて興味をもったのは日本酒ではなく、ウイスキーでした。「日本人に本物のウイスキーを飲んでもらいたい」。その強い想いを胸に、1918年、単身ウイスキーの本場、スコットランドに渡ります。船に乗り込み、第一次世界大戦下のアメリカを経由してスコットランドをめざす旅は、命がけだったに違いありません。竹鶴政孝の情熱とはどのようなものだったのか、その思いを知るニッカウイスキー(株)仙台工場 工場長 佐藤学さんにお話しをお伺いました。

渡英からおよそ10年後の1934年、竹鶴氏は理想のウイスキーをつくるための蒸溜所を北海道余市に構えます。しかし、2種類以上のモルトのブレンドを理想としていたために、もうひとつ、蒸溜所が必要だと考えていました。ウイスキーは、その土地の自然や気候風土に大きな影響を受けます。さまざまな条件を満たす候補地を探しまわり、最終候補として残った場所が、宮城・岩手・福島の各地にありました。
 1967年5月12日、竹鶴氏が最初に視察に訪れたのが、現在の宮城峡蒸溜所が建つ場所でした。標高232m、仙台の市街地から約25km離れたこの地は、四方を山に囲まれ、冬の最低気温が街なかと比較すると4~5℃低く、森の中を広瀬川、新川という2つの清流が流れ、出会う地点でもありました。「各地を視察してまわった担当者は、この地がよいウイスキーづくりに最も適すると思ったのでしょう。社長の竹鶴政孝を最初に案内したそうです」と教えてくれたのは、(株)仙台ニッカサービス営業部長の岡島君夫さん。冷涼で湿潤な気候、水に恵まれ、空気が澄んでいるという、ウイスキーづくりに欠くことのできない条件が、宮城峡にはすべて存在していました。竹鶴氏は、まず緑豊かな森を見渡しました。そして、そばを流れる新川のうわ水をおもむろにグラスに入れ、ポケットからブラックニッカを出して水割りにして飲みました。「いい水だ。地形も申し分ない。ここにしよう」。こうして他の候補地を訪れることなく、即決で宮城峡が第2の蒸溜所建設地に選ばれたのです。

北海道余市と宮城峡、この個性が異なる2つの蒸溜所をもつことによって、竹鶴氏が思い描いた理想のウイスキーづくりが結実しました。渡英から約50年後に誕生した宮城峡蒸溜所は、ウイスキーづくりに一生を捧げた竹鶴氏の生涯の集大成とも言うべき仕事となったのです。「竹鶴政孝は、『よいウイスキーづくりにトリックはない』と、いつも言っていたそうです。ウイスキーは、自然が育ててくれるのだから、我々は自然に対して謙虚でいなければならない。そのことを竹鶴政孝は、2つの蒸溜所を通じて私たちに教えてくれているのです」と語る岡島さん。蒸溜所建設にあたり、竹鶴氏が最も重要視したのが、「自然を残す」ということでした。できる限り樹木を切らずに、土地の起伏をそのまま活かす建設工事は実に大変なものでした。さらに建物が景観にしっくり溶け込むよう、建物はレンガ積みを採用、電線を地下に埋設するという徹底ぶりから、自然に真摯に向き合った竹鶴氏の想いが伝わってきます。

余市町は積丹半島の付け根に位置し江戸時代からニシン漁で栄えた港町です。明治に入ってからは日本で初めてのリンゴ栽培に成功し、北海道有数の果樹生産地としても栄えてきました。
ニッカウヰスキーの創業地としても有名で、ジャパニーズウイスキーの父、竹鶴政孝氏が冷涼なスコットランドに似た気候を追い求め1934年に設立。当時からの石炭直火蒸溜を今に受け継ぎ、香り高く力強い原酒は国際的に高い評価を受けています。無料の工場見学では試飲もでき、製造工程やニッカウヰスキーの歴史などが学べ、毎年25万人を超える観光客が訪れます。

ウイスキーの父と呼ばれた竹鶴政孝氏のウイスキー作りに対する情熱とはどのようなものだったのか?蒸留所の建設場所として何故宮城峡は選ばれたのか?本ホームページ内で詳細にせまります。
その他、宮城峡蒸留所内の見どころや楽しみ方、そして蒸留所を有する作並・定義(じょうぎ)地区オリジナルのモデルコースもご提案いたします。竹鶴政孝の生涯の集大成というべき宮城峡蒸留所を訪れ、その想いに触れてみませんか?

2014年3月,世界的なウイスキーコンクールにおいて「竹鶴17年」が世界最高賞を受賞しました。北海道余市や仙台市宮城峡で造り出されたウイスキーは,ここ柏市に運ばれ,市内の湧き水を加えておいしいアルコール度数に調整後ボトリングされています。そこにはブレンダーと呼ばれる職人の熱い思いも一緒に込められているのです。
「柏をウイスキーのまちに。」を合言葉に,今年でかしわウイスキーフォーラムは4回目を迎えます。市民の間に根付きはじめた,このイベント開催を皮切りに,柏市は今後様々な取組みを行ってまいります。