
渡英からおよそ10年後の1934年、竹鶴氏は理想のウイスキーをつくるための蒸溜所を北海道余市に構えます。しかし、2種類以上のモルトのブレンドを理想としていたために、もうひとつ、蒸溜所が必要だと考えていました。ウイスキーは、その土地の自然や気候風土に大きな影響を受けます。さまざまな条件を満たす候補地を探しまわり、最終候補として残った場所が、宮城・岩手・福島の各地にありました。
1967年5月12日、竹鶴氏が最初に視察に訪れたのが、現在の宮城峡蒸溜所が建つ場所でした。標高232m、仙台の市街地から約25km離れたこの地は、四方を山に囲まれ、冬の最低気温が街なかと比較すると4~5℃低く、森の中を広瀬川、新川という2つの清流が流れ、出会う地点でもありました。「各地を視察してまわった担当者は、この地がよいウイスキーづくりに最も適すると思ったのでしょう。社長の竹鶴政孝を最初に案内したそうです」と教えてくれたのは、(株)仙台ニッカサービス営業部長の岡島君夫さん。冷涼で湿潤な気候、水に恵まれ、空気が澄んでいるという、ウイスキーづくりに欠くことのできない条件が、宮城峡にはすべて存在していました。竹鶴氏は、まず緑豊かな森を見渡しました。そして、そばを流れる新川のうわ水をおもむろにグラスに入れ、ポケットからブラックニッカを出して水割りにして飲みました。「いい水だ。地形も申し分ない。ここにしよう」。こうして他の候補地を訪れることなく、即決で宮城峡が第2の蒸溜所建設地に選ばれたのです。

北海道余市と宮城峡、この個性が異なる2つの蒸溜所をもつことによって、竹鶴氏が思い描いた理想のウイスキーづくりが結実しました。渡英から約50年後に誕生した宮城峡蒸溜所は、ウイスキーづくりに一生を捧げた竹鶴氏の生涯の集大成とも言うべき仕事となったのです。「竹鶴政孝は、『よいウイスキーづくりにトリックはない』と、いつも言っていたそうです。ウイスキーは、自然が育ててくれるのだから、我々は自然に対して謙虚でいなければならない。そのことを竹鶴政孝は、2つの蒸溜所を通じて私たちに教えてくれているのです」と語る岡島さん。蒸溜所建設にあたり、竹鶴氏が最も重要視したのが、「自然を残す」ということでした。できる限り樹木を切らずに、土地の起伏をそのまま活かす建設工事は実に大変なものでした。さらに建物が景観にしっくり溶け込むよう、建物はレンガ積みを採用、電線を地下に埋設するという徹底ぶりから、自然に真摯に向き合った竹鶴氏の想いが伝わってきます。