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仙台城と政宗公 おもしろ歴史エピソード

仙台城と政宗公 おもしろ歴史エピソード

「仙台」の地名から国造りへの意欲が分かる

 「仙台」という地名が誕生したのは約400年前のこと。政宗公が仙台城を築城する際に、旧名「千代」から「仙台(仙臺)」に改められました。わざわざ改名したのにはいわれがあります。豊臣秀吉に領地を没収され、宮城県北への国替えを命じられた公にとって、新たな土地での新たな国造りは悲願でした。
 関ヶ原の合戦後に、家康から新たに築城を許されると、政宗公は精力的に国造りに取り組みます。その意欲の表れが「仙台」の字。地名に関する由来は諸説ありますが、中国唐代の漢詩にちなんだ説が有力です。その冒頭の句「仙臺初見五城楼」の「仙臺」は「仙人の住む臺=理想の場」の意。千代が「仙人の住むような理想の国になるように」との熱い思いを託したと言われています。

“最強で最良の城”と讃えられた仙台城

今は城跡を残すだけの仙台城ですが、往時はどんな姿だったのでしょうか。慶長16(1611)年に仙台城を訪れたイスパニアの使節ビスカイノは、仙台城のすばらしさを「金銀島探検記」で以下のように報告しています。
 「この城は、当国(仙台藩領)にある最強で最良の城のうちの一つである。なぜなら、それは四囲が非常に深い川で囲まれている岩山の中に築城されていて、(中略)そこからは市街の全体が眺望できる。当市は江戸の市と同じほどの大きさであり、極めて堅固に造られている。そして数レグア(1レグア=約6km)ある海岸線を見渡すことができる」
 急峻な崖や渓谷、森など自然の地形を生かした山城は頑強で、本丸は近世城郭の中でも最大級の規模を誇りました。また城内は桃山建築の豪奢な建物が彩り、城下は賑わいをみせていました。そのような富める東北の国に、ビスカイノは感動を覚え、讃える文章を残したのです。

家来にも素直に謝った政宗公

政宗公は酒好きとしても知られます。慶長13(1608)年には大和国から職人を呼び、城内に酒造屋敷を設けたそうです。盃を酌み交わすことたびたびで、時には酔った勢いでつい度が過ぎてしまうこともあったようです。ある日、酒を飲んでいた政宗公が、供をさせた家来の小姓頭の言い訳に腹を立て、脇差のさやで頭をせっかんするという一件がありました。それから数日後、酔いに任せて手を上げたことを公は反省し、詫び状を小姓へ送っています。「いかに酒を飲んだ上でのこととはいえ、(中略)それがしの誤りであった」と。飲みすぎによる失敗は今も昔も共通するところですが、身分関係なく、素直に謝罪する姿に政宗公の人柄がしのばれます。

日本で初めて「鉛筆」を使ったのは家康公と政宗公だった?

家臣の支倉常長をローマへ旅立たせ、外国との交易に力を入れた政宗公。出土品を見ても、ブローチや眼鏡など、身の回りに舶来品を取り入れていたことが分かります。その一つが鉛筆。瑞鳳殿(御霊屋)の発掘時に公の副葬品から発見されたため、使用していたものと思われます。
 現在、日本には古い鉛筆が2本出土しており、一つが久能山東照宮で発掘された家康公のもの、もう一つが政宗公のものと言われています。鉛筆がいつ伝来したかは定かでなく、今のところ発見は2本だけというものですが、国内で使われ出す明治時代よりずっと以前に、二人は鉛筆という不思議な物に触れ、次第に愛用するようになりました。

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