モデルコース

Modelcourse

伊達な歴史の新体験|達人コース~仙台城下町割りを探る~

まち歩きの達人、木村浩二と佐藤正実がおすすめするコースです。
仙台藩祖伊達政宗公のまちづくりがよく分かる、仙台城大手門下から大橋、大坂、御譜代町筆頭の大町、城下町割りの基点芭蕉ノ辻と続く、町割の東西幹線となった大手筋をたどるコースです。
<距離約1.5km 約1時間25分>

01

地下鉄東西線 国際センター駅こくさいせんたーえき

地下鉄は仙台中心部の河岸段丘崖を抜け、川内の下町段丘へ。国際センター駅2Fはそれを一望できるスポットです。あまり気づきにくいのですが、駅南口は青葉山から流れ落ちる千貫沢(せんがんざわ)の暗渠(1)になっています。

(1)国際センター駅南側口は千貫沢暗渠の上
※国際センター駅東1出口を出て右手(南)方向に進むと、右手に見えます。

(2)古絵図で見る千貫沢と屋敷跡
『仙台城下絵図〔寛文4年〕』宮城県図書館所蔵

02

国際センター前こくさいせんたーまえ

国際センターが建つ敷地は、伊達家一門である登米伊達家と水沢伊達家の2つの屋敷があった場所(3)。いかに広大な屋敷だったかが分かります。

(3)登米伊達家(写真)と水沢伊達家の屋敷跡

03

大手門跡おおてもんあと

桃山様式の豪壮なしつらえで国宝に指定されていた大手門(4)ですが、1945(昭和20)年7月10日の空襲により焼失しました。一見普通の上り坂に見える大手門前の坂ですが、藩政期は枡形のクランク道になっていて、敵の侵入を困難にする役割を持っていました(5)。なお、絵図によれば大手門下の国際センター前周辺は、幅広い道でした。市博物館前の五色沼は仙台城の堀の一部ですが、「日本フィギュアスケート発祥の地碑」がある場所(6)として有名です。仙台にゆかりのある2人の五輪金メダリストを輩出しています。

(4)消失前の大手門
所蔵:風の時編集部

(5)絵図で見る枡形のクランク
『仙台城下絵図〔寛文4年〕』宮城県図書館所蔵

(6)日本フィギュアスケート発祥の地とされる「五色沼」
1924(大正13)年頃
東北大学史料館所蔵

(6)現在の五色沼。案内板に大正時代の様子が写る。

04

大橋おおはし

「大手」とはお城の表門の意味で、仙台城と城下を繋ぐ「大手筋」に架かる橋なので「大橋」と呼ばれます。
明治25年に鉄橋に替わり、昭和13年に現在のコンクリート橋に替わりました。藩政期の大橋は今よりも少し上流側に架かっており、広瀬川の川床には旧橋脚の柱穴(7)を多数見ることができます。

(7)広瀬川の川底にある旧橋脚の柱穴
※川底をご覧になる際は、柵(欄干)にしっかりつかまり、くれぐれもご注意ください。

05

大坂おおさか

大橋と城下町、下町段丘と中町段丘の崖を繋ぐ重要な坂。仙台には藩政期から呼ばれている六つの有名な坂「仙台六坂」と呼ばれるものがあり、大坂(8)はそのひとつです。
約9メートルもの崖(9)であるため藩政期は直登できず、折れ坂だったことが絵図から読み取れます(10)。現在の緩やかで真っ直ぐな坂は明治期に作られたもので、大橋のたもとの自転車店から南側を見ると、大橋は盛り土された上に架かっていることが分かります。

(8)大坂は「仙台六坂」のひとつ

(9)約9mもの落差がある大坂
※市道から北側に降りると、高低差がよく分かります。

(10)大坂はかつて屈曲した折れ坂だった
『仙台城下絵図〔寛文4年〕』宮城県図書館所蔵

06

大町頭おおまちがしら

坂を登りきったところが大町頭(おおまちがしら)(11)です。藩政期は西公園敷地全体で重臣屋敷がたった4つ(12)。南側一帯の片平丁は伊達家一門・仙台藩重臣の大屋敷が置かれていました。大町通は大店(おおだな)が軒を並べ大いに賑わっていました。大町通と戦後新設された青葉通は、建物をひとつ挟んで約350年の時を隔てて造られています(13)。

(11)大坂を登りきると大町頭

(12)西公園の広い敷地には重臣屋敷が4つのみ
『仙台城下絵図〔寛文4年〕』宮城県図書館所蔵

(13)大町通と青葉通ができた時代差は約350年

07

大町三丁目横丁/本荒町おおまちさんちょうめよこちょう/もとあらまち

昭和11年建築、明治期の様式を取り入れた「西欧館」(14)が、交差点の南東角に建っています。西欧館より北は大町三丁目横丁、南は本荒町(もとあらまち)という町でした。もともとここには御譜代町(※)の一つである荒町がありましたが伊達政宗公晩年の居城である若林城を整備するのに伴い、荒町はここから現在の若林区古城(ふるじろ)に移されました。
藩制期、大町三丁目には呉服問屋が置かれましたが、「西欧館」の入口の幅が当時の呉服問屋の間口の広さの名残りです。

(※)御譜代町(ごふだいまち)・・・江戸時代、仙台藩で尊重された、「大町」「肴町」「南町」「立町」「柳町」「荒町」の6つの町の総称。江戸時代初めには商業上の特権を与えられ、仙台の町人町の上位に置かれました。

(14)「西欧館」の間口は当時の名残

08

肴町さかなまち

肴町は仙台藩の御譜代町(ごふだいまち)の一つ。魚市場・問屋が置かれ、藩主の食材も献上した町です。「肴町公園」(15)の南北の長さが町屋の奥行きを示し、公園全体が肴町の1軒の町屋敷の広さにあたります(古地図参照)

(15)大正時代の肴町公園
所蔵:風の時編集部

(15)肴町公園は町屋敷1軒分の広さ

09

奥州街道国分町おうしゅうかいどうこくぶんまち

藩政期の主街道であり、仙台城下の中心地芭蕉ノ辻を通る「奥州街道」です(16)。芭蕉ノ辻から北に延びる奥州街道沿い、定禅寺通りの先、二日町までが国分町(こくぶんまち)です。現在は東北一の歓楽街として有名ですが、国分氏に仕えた木ノ下(現在の若林区木ノ下)辺りの人々が商人になって移り住んだ町で、藩政期には国分町十九軒といわれた地域に多くの本屋が軒を連ねていました。主街道であり水はけが考慮されたのか、奥州街道筋はやや盛り土されていて、その様子は肴町公園から国分町方面をみると確認することができます。

(16)基幹道だったかつての奥州街道

10

芭蕉ノ辻ぱしょうのつじ

大町通と奥州街道が交差する辻で、城下町割の起点となったのが芭蕉ノ辻(17)です。辻の西側の城寄りに高札が立ったことから「札ノ辻」と呼ばれ、城下で最も繁華な場所であり、江戸時代後期には四つ角に瓦葺二階建の商家が建ち商業都市仙台のシンボルとなりました。
昭和初め、南町通から終点の芭蕉ノ辻まで市電が走り、芭蕉ノ辻より南側の道幅が広いのはその痕跡です(18)。

(17)「芭蕉ノ辻」の四つ角には瓦葺二階建の商家
所蔵:風の時編集部

(18)昭和初期の芭蕉ノ辻線が写る写真
所蔵:風の時編集部

(18)芭蕉の辻より南側の広い道幅が市電の痕跡

11

地下鉄東西線 青葉通一番町駅周辺あおばどおりいちばんちょうえきしゅうへん

大町通から青葉通の地下鉄青葉通一番町駅までゆるやかに南下する坂道は、河岸段丘崖をならした落差約3mの坂で(19)、藤崎の青葉通側にある16段の階段はそのまま落差分を示しています。

(19)一番町の落差3mの坂道
※青葉通からみたアーケード街

(19)藤崎百貨店青葉通側の階段

達人(監修者)プロフィール

●木村浩二(きむら こうじ)
東北学院大学文学部史学科(考古学専攻)卒業。
仙台市文化財課に勤務し、市内の遺跡発掘調査に従事。地底の森ミュージアム学芸室長、文化財課専門員を経て、現在は宮城学院女子大学非常勤講師。
専門分野は考古学・東北古代史。NHKテレビ「ブラタモリ仙台編」でナビゲーターを務める。
●佐藤正実(さとう まさみ)
2005年“仙台の原風景を観る、知る”をテーマに「風の時編集部」を設立。2006年「昭和3年版仙台市全図復刻版」を初出版し、その後、仙台の古い絵葉書をもとにした写真集やカレンダー、大正時代の今昔地図帳「仙台地図さんぽ」、仙台市博物館との共同企画「仙台まちあるきシリーズ」など32商品を制作・発行する。

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